赤禰武人 村塾生、奇兵隊総督。四国連合艦隊と下関にて戦う。高杉晋作の下関挙兵には従わず、後に筑前へ脱出するが、

     幕吏に捕えられ、幕長間の和平交渉の為に釈放される。しかし主戦論に固まった藩から内応を疑われ、

     鰐石河原で斬首される。

阿川四郎 文久三年に奇兵隊入隊、槍隊隊長となる。四国連合艦隊との戦いで砲隊長を兼ね、下関前田砲台で戦う。

     下関挙兵時には恭順派と美禰郡内にて戦い、次いで四番隊の司令に昇進した。第二次長州征伐時に、

     豊前小倉口に出陣し、大里を攻撃中銃丸に当たり戦死。

秋元新蔵 勤皇庄屋。農民の次・三男に剣を教え東津隊を設立する。

秋良貞温 藩家老。隠居していたが、第二次長州征伐時に山口の本営で軍議に参与

秋良貞臣 貞温の長子。元治元年に真武隊の総監となる。禁門の変時には毛利定広に従った。

芥川小七 集義隊士。禁門の変で会津兵に捕えられ、六角獄に入れられた後、斬殺される。

阿座上庄蔵 村塾生。下関での攘夷決行に参加。後に萩野隊隊長となり、禁門の変では国司信濃に従う。

      中立売門に進攻するも、重傷を負って自決。

阿野軍治 国司信濃の家臣。禁門の変にて、烏丸邸前で会津兵と戦い戦死。

阿部宗兵衛 奇兵隊、半隊司令。 第二次長州征伐時に豊前小倉口に出陣し、大谷越で重傷を負い、翌日死亡。

天野謙吉 藩政務役として攘夷運動に尽力した。

天宮慎太郎 一時期脱藩していたが、下関攘夷の時に帰国。奇兵隊に入隊し、次いで陣場奉行となる。更に健武隊隊長に昇進し、

     壇ノ浦前田の砲撃戦に参加。下関挙兵時に美禰郡絵堂村で戦い、野波瀬屋八十槌宅前で戦死。

有田要輔 遊撃隊伍長。第二次長州征伐時に芸州四十八坂口、鳴川村で戦死。

有地品之允 毛利定広の小姓として下関挙兵時には萩軍として参戦。美禰郡長登で戦傷。後に精銃隊司令となり、

      第二次長州征伐時には石州口で奮戦し、負傷。戊辰戦争時に第一大隊、四番中隊司令として福山城を攻略。

      彰義隊、会津藩との戦いでも活躍した。後の海軍中将。

有吉熊次郎 村塾生。老中間部詮勝暗殺を計画して失敗し幽閉される。八幡隊隊長。

飯田梅之進 奇兵隊士。第二次長州征伐時に豊前門司の田ノ浦で戦死。

飯田正伯 村塾生。吉田松陰の釈放、遺骸取り引き運動に尽力した。

井川千之助 慶応三年、振武隊に入隊し半隊司令となる。奥羽征討時に若松城を攻めるが岩代飯寺で負傷し帰国する。

      しかし三年傷が再発し病死。

伊木均 長州の支藩、清末藩士。安政、万延年間に藩の士風刷新を率先して行った。後に片見小次郎と力を合わせ内政を整理。

    藩主の補佐をするなど内外に奔走した。文久三年の京都での政変の時は久坂玄瑞らの謀議に加わり、七卿と共に都落ちした。

第二次長征から廃藩置県まで功労多く、参政、権大参を勤めるなど清末藩第一の能吏と評された。

生田良佐 藩家老、毛利隠岐の陪臣。幼少より学を好み、兵法、暦数、刀槍、弓馬の諸技に通じていた。

     吉田松陰の勧めで上京し久坂玄瑞、中谷正亮らと国事を議した。しかし文久三年、二十五の若さで病死。

石川厚狭介 下関での攘夷決行時に京から久坂玄瑞らと帰国し、下関の守備に当たり、奇兵隊に入隊する。

      後に振武隊小隊長になり、恭順派の政府軍と美禰郡絵堂で戦ってこれを破る。第二次長州征伐時には中隊司令に昇進し、

      石州口に出兵、浜田城を攻略した。鳥羽伏見の戦いの時、山城伏見堤で会津、桑名藩兵を追撃中、

      伏兵に胸を槍で貫かれる。しかしその伏兵を直ちに斬り捨てなおも奮闘し、激戦の末に戦死した。

石田三千井 八幡隊隊士。下関での攘夷決行に参加した。下関での挙兵時に恭順派政府軍と美禰堂の諸所で戦い、川上口で奮戦中、

      銃丸に当たり戦死。

泉十郎 長州の支藩、長府藩士。文久三年、足軽頭として下関防御に当り、有川恒槌、福原和勝らと精兵隊を組織した。

    元治元年、寺社街奉行となる。この年五月、宗藩の冤罪の為上京するが、七月に禁門の変に会い、鳥取藩士に変装して帰国。

    次いで藩目付役となり、慶応元年革新派同士と報国隊を結成、その都督になる。しかし讒言に合って切腹させられた。

伊勢華 元保十三年廟司役、弘化二年書物方役となる。後、海防用務を以って相州備場へ差遣されたのち大坂検使となった。

    その後も、江戸方用所役兼地方所帯方役、当職手元役、十月郡奉行等の役職を経て、慶応三年上々勘算用聞役となって、

    討幕軍出征の輜重会計を監督した。維新後、宮内省京都支庁長官になった。

井関英太郎 下関攘夷戦に参加。老中小笠原長行要撃を計画したが果さず、奇兵隊に入隊する。文久三年都落ちした七卿の一人、

       沢宣嘉を擁して、河上弥一や国学者、平野国臣らと但馬に走り生野で挙兵するが破られ、山口村妙見山で切腹。

磯谷謙蔵 長州の支藩、長府藩士。今枝流剣術を修め、馬術にも通じていた。馬関在番役、寺社奉行を歴任。慶応元年、

     報国隊創設に尽力し、その軍監となる。しかし都督の泉十郎と反りが合わず、泉を切腹に陥れたため隊員の反感を買い、

     京に脱出するが、慶応三年品川弥二郎に見つかり、長府藩兵の陣屋で隊員の勝見善太郎に斬首された。

磯野虎蔵 奇兵隊士。第二次長州征伐時に豊前へ出陣したが太貫山で負傷し戦死。

井手孫太郎 文久三年、楢崎剛十郎と共に九州諸藩の時勢を視察した後、奇兵隊に入隊。元治元年には義勇隊に入り、

      藩主訴冤のため上京するも、禁門の変に敗れて帰国。下関挙兵時、恭順派に対抗するため第二奇兵隊が出来ると、

      その書記になった。 主家の大整理を断行したため反対派の刺客に殺された。

伊東禎蔵 奇兵隊騎馬斥候。第二次長州征伐時、豊前太貫山で戦死。

伊藤敬蔵 文久三年、桜井新平、佐藤新右衛門、田中嘉三郎らと集義隊を結成しその砲隊長となる。禁門の変で堺町門で奮戦し戦死。

伊藤惣兵衛 勤皇庄屋。尊攘論を唱え、私財を投じて壮丁の武術を奨励した。下関挙兵時には糧食を輸送して援助、

      元治元年には大洲鉄然、中原維平らと真武隊を結成した。

伊藤博文 村塾生。安政三年、藩命により相州浦賀警衛に出役の折、来原良蔵に見出され、その紹介で松下村塾に学び、

     次いで長崎で洋式操練を学んだ。安政六年には桂小五郎に従い攘夷運動に参加。文久二年には品川御殿山の英国公使館焼打

     にも参加。翌三年、士分に列せられ井上馨らと共に渡英。そこで開国、富国強兵論に転じる。四国連合艦隊下関砲撃計画を

     知り急遽帰国。列国との講和を工作した。以後討幕運動に従い、第一次長州征伐後、恭順派が藩要路を制した際、

     高杉晋作と共にこれを一掃した。第二次長州征伐時には長崎との間を往復して汽船、兵器の購入に尽力した。

     後に日本国の初代総理大臣となる。

伊藤百合五郎 文久二年江戸に行き、藩世子に扈従。帰国後、長州に潜伏していた公卿、中山忠光に宮城彦助らと近侍。

       奇兵隊に入隊し、文久三年には三田尻で七卿を護衛した。同年、河上弥一らとその七卿の一人、沢宣嘉を擁して

       但馬に行き、生野で義兵を挙げたが、敗れ、山口村妙見堂で切腹した。高杉晋作の信愛を受けており、

       高杉は彼の死を聞くと痛嘆してやまなかった。

井上馨 弘化二年山口講習堂に入学。嘉永四年には藩校明倫館、次いで志道慎平の養子になり江戸の有備館に入った。

    また斉藤弥九郎に剣を、岩屋玄蔵に蘭学を、江川太郎左衛門に砲術を学んだ。万延元年手廻組に加えられ小姓役となり、

    藩主に従い帰国。西洋銃陣の修練に励んだ。文久二年、高杉晋作らと横浜の外人襲撃を計画、御盾組を結成して血盟したが、

    果さず中止となったが品川御殿山の英国公使館焼打を実行した。翌年志道家を離別し、伊藤俊輔、野村弥吉、山尾庸三、

    遠藤謹助と上海を経て英国に留学、元治元年、四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り、講和周旋のため伊藤と帰朝して奔走中、

    禁門の変、四国連合艦隊の下関砲撃事件と内憂外患が相次いだため、高杉、伊藤らと和議成立に努力した。

    しかし藩政恭順派に握られ、自身も藩庁での会議の帰途に刺客に襲われ重傷を負った。慶応元年、山口鴻城軍編成に総督に

    選ばれ、阿武郡佐々並で恭順派政府軍を破り藩論を回復した。第二次長州征伐時には芸州口の参謀として戦勝、幕吏勝海舟ら

    と厳島で止戦談判をした。維新後も元老の一人として大臣を歴任する。

井上小豊後 長崎聞役、蔵元両人役、当島、山口両代官を経て一門方手元役を歴任。後、目付役、小姓筆頭、明倫館頭人から安政四年

      相州御預所総奉行用談役、翌五年には郡奉行、江戸当役用談役を歴任し、万延元年奥番頭役となった。

      元治元年と慶応元年に山代および赤間関都合役を勤めて藩政の枢機に参与した。

井上奨輔 村塾生。文久三年奇兵隊に入隊。ついで京都守衛の任についたが八月十八日の政変によって帰国。元治元年藩主訴冤のため

     再び上京したが禁門の変時、堺町門で負傷し帰国した。後、振武隊に入り砲隊長となる。慶応元年、恭順派政府軍と

     美禰郡で戦い、翌二年の第二次長州征伐時には石州口浜田城を攻略した。明治元年、北陸征討軍として出陣したが、

     越後浦原郡石間村の激戦で戦死。

井上省三 第二次長州征伐時、彊義隊を編成して隊長となり豊前小倉口で戦った。維新後、東京千住製絨所長、ついで農商務省少技長

     となった。

井上唯一 長州の支藩、徳山藩士。文久二年、上京して徳山藩主の前衛を勤めた。翌三年都落ちした七卿の警衛の任を帯びて山口に

     赴き、奇兵隊に入隊。久坂玄瑞に従って京摂の間を奔走し帰藩。元治元年、禁門の変時に藩論が分れ、恭順派のため浜崎の

     獄舎に囚われ、河田佳蔵と共に刑死した。

井上勝 安政二年実父に従い江戸浦賀に行き、同年藩命により長崎に遊学、兵学をオランダ士官に学んだ。翌六年再び江戸に行き

    砲術を修行し、蕃書調所に入り、ついで箱館に行き、武田斐三郎塾に入門の傍ら英国領事館員に英語を学んだ。

    文久三年航海術修学のため、井上聞多、伊藤俊輔、山尾庸三、遠藤謹助とロンドンに遊学し、元治元年、井上(聞多)、

    伊藤の帰国後も残って勉学に努め鉱山学および鉄道の実業を研究して明治元年帰国した。維新後、鉄道庁長官、鉄道院顧問

    などを勤め、『鉄道の父』と呼ばれる。

井原主計 嘉永五年手廻組頭となって江戸に行き、翌六年米施設の来航に藩兵総奉行として大森に戍した。安政六年江戸藩邸留守居役

     となり、文久二年には老中に昇進した。翌三年、攘夷実行の監察使正親町公董の馳走役を勤めた。八月自十八日の政変に

     対処して藩の奉勅始末を上奏のため、久坂玄瑞、入江九一らを従えて大坂に行き入京を乞うが許されず、わずかに勧修寺

     経理と会し、密命を伝えることを得た。元治元年、加判役に列せられる。次いで赤間総奉行を命ぜられ、四国連合艦隊と

     止戦の後、杉孫七郎、伊藤俊輔らを従え、横浜に行き講和を締結した。慶応元年、第二次長州征伐前に幕府は長州藩の家老

     を召し、家老格として上坂の途中、芸州広島で藩主の意を承けるためと称し帰国。藩主に専断帰国の罪を責め退隠を命じ

     られる。翌二年、舌疽にかかり病死。

井原小七郎 村塾生。慶応元年、河瀬真孝、野村靖と共に長州藩諸隊の代表者として、藩処分のために広島に来た幕府使者永井尚志と

      国泰寺で会見した。詩文、書道に通じ明治の初め藩校明倫館の都講となった。

今井太郎衛門 二十四、五の時、京の今井家に迎えられて大黒屋の跡を継ぐ。御用商人として藩の御倉番をする傍ら、諸国の志士と

       親交を結んだ。

今田靱負 長州の支藩、岩国藩家老。元治元年出頭役となり禁門の変以後、藩主を補佐して藩論の調停に尽力した。慶応元年、

     第二次長州征伐前に幕府が宗藩および末家を広島に召喚した時、岩国藩主の名代として行き弁論に努めた。翌二年、戦端が

     開かれると大組頭として室木村に出兵したが、病気に罹り死去した。

入江九一 村塾生。吉田松陰の、閣老間部詮勝の暗殺計画に加わったが果さなかった。松陰の入獄中、その志を受けて尊攘に奔走し、

     弟の和作と共に幕吏に投獄された。釈放後、文久三年、杉山松助、山県小輔らと上京したが、中山忠光の京都脱走に従って

     すぐに帰国した。ついで九州を遊歴して尊攘の大義を説き、高杉晋作を助けて下関で奇兵隊創設に尽力した。

     元治元年再び上京。禁門の変時、久坂玄瑞らと山崎天王山に駐屯し、参謀として鷹司邸内で奮戦。久坂自刃の時、

     後事を託され、囲みをついて逃げようとした際、重傷を負い切腹した。

入江次郎吉 御楯隊に入り半隊司令となる。慶応二年、第二次長州征伐時、安芸国佐伯郡大野村に進撃して奮戦、中傷を負い戦死。

岩本忠吉 義勇隊隊士。元治元年、禁門の変時、柳馬場下立売門で戦い、富小路仏光寺付近で戦死。

上田茂右衛門 寛政十二年藩校明倫館に入学。儒学、国学を修行した。文化二年には藩に出願し山口講堂(後に講習堂と改名)を

       創建した。天保十一年、手廻組に加えられる。嘉永三年藩祖の実録編纂に参与した。

臼井富之祐 藩校明倫館に入り、ついで土屋蕭梅に従学、また槍術を小幡源右衛門に学んだ。文久三年奇兵隊に入隊。

      井原主計に従って上京し藩邸に勤め、勧修寺家や所司代邸に出入して周旋に奔走した。元治元年、禁門の変時、

      藩家老、福原越後に属して奮戦中、稲荷街道で重傷を負い切腹。

内山太郎右衛門 文久三年、攘夷決行に感奮して藩吏を辞職し奇兵隊に入隊して器械方となり外船撃攘に参加した。

        山田虎之助らと長崎の夷館焼打ちを計画したが、高杉晋作、入江九一らに慰諭されて止める。

        隊の探索方となり、脱藩して商人に変装し、各藩の形勢を探って京の藩邸に報告した。元治元年池田屋の変時に

        嫌疑を受け、幕吏に捕えられ投獄される。禁門の変時、幕吏槍隊により斬殺された。

内海忠勝 嘉永三年名井塾に入り名井守助に学んだ。安政六年頃から名井守助の弟、服部哲二郎の尊攘思想に共鳴して親しく交わり、

     文久三年の服部の宣徳隊結成に加わった。元治元年、奇兵隊の客分となった後、脱藩して大坂に行ったが、帰国を命ぜられ

     て閉門となった。しかし服部らと吉敷隊を組織して上京。禁門の変時に帰国し謹慎したが許され、

     山尾庸三の食客となった。慶応元年御楯隊に入り、恭順派政府軍と美禰郡内で戦い、ついで遊撃隊に加わって高森へ転陣し

     た。主家である吉敷毛利氏の兵制改革の際帰村して良城隊編成に尽力。第二次長州征伐時、良城隊小隊司令として芸州口へ

     出陣した。維新後、長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各府県令、知事を歴任した後、内務大臣となる。

宇山卯作 遊撃隊隊士。慶応二年の第二次長州征伐時、芸州口に出陣し大野村で戦死。

浦島彦 文久三年、藩の若年寄となる。元治元年、斥候指揮役を勤めて兵庫へ出陣するが禁門の変のために帰国する。慶応元年、

    萩城代となり翌二年には南第三大隊御用掛を勤め、第二次長州征伐時には熊毛郡宇佐木の万徳寺へ出陣した。

浦靱負 天保十四年、羽賀台大操練には手廻大将を勤め、弘化四年家老職に列せられて江戸当役となった。嘉永六年、米使の来航時、

    藩兵を率いて大森羽田を警備、文久二年には兵庫警備の兵を督した。文久三年、一切の職を辞して帰郷したがその後も革新派

    の黒幕として藩論回復に尽くした。

江木仙右衛門 長州の支藩、岩国藩士。文久三年八月十八日の政変時、都落ちする七卿を護衛した。元治元年、四国連合艦隊来攻時、

       下関に行き宗藩の軍に加わった。宗藩内が恭順派に政権を握られた後、藩主の命により、同じ支藩の徳山藩の内情を

       探索したが、慶応元年、復命の帰路に藩領で敵諜と誤認されて斬殺された。

江村彦之進 長州の支藩、徳山藩士。嘉永六年、藩校鳴鳳館の句読師となり、安政四年には江戸に行き、安積良斎に学んでその塾長

      となった。同六年、兄の本城清と九州諸国を遊歴し、帰国後萩の明倫館に入った。文久二年、萩の同志と共に攘夷実行に

      奔走し、朝議の攘夷決定をみて帰藩、学館訓導役となり、藩政に参じて海防局長、会計局長となった。元治元年の禁門の      変に際し、恭順派のため禁固に処せられ、弁論する為外出した途中で殺された。

遠藤謹助 文久三年、井上聞多、伊藤俊輔、井上勝、山尾庸三らと共にロンドンに遊学した。井上(聞多)、伊藤が元治元年に帰国

     した後も研究に努め、慶応二年帰国した。維新後造幣局長となる。

大枝鉄次郎 第四大隊に入り、四国連合艦隊の下関来攻時に戦い、慶応二年の第二次長州征伐時には芸州口へ出陣。翌三年の討幕軍

      には遊軍として山陽道を尾道に進み、明治元年伏見、淀の戦いを経て、福山城攻略に勇名を轟かせた。

      奥羽山形に進軍し、金山嶺の戦いの時、敵兵連射の間を勇進したが戦死した。

大枝八郎 奇兵隊隊士。慶応二年の第二次長州征伐時、豊前小倉口へ出陣。太貫山の幕兵を攻撃中、戦死。

大洲鉄然 僧侶。文久三年、僧十数名を誘って上関の義勇隊に入隊。元治元年、伊藤惣兵衛、中原維平らと大島郡内の有志を糾合して

     真武隊を編成。慶応元年の高杉晋作の下関挙兵時、白井小助、石田英吉、天野御民らと第二奇兵隊を組織。室積に陣して、

     周防南部の各郡を鎮定した。翌二年には大島郡内諸宗の僧侶を集めて護国団を編成し、第二次長州征伐時にはこれを率いて

     防戦した。維新後、本願寺の執行長となる。

大谷樸助 村塾生。文久二年以来、京摂の間を奔走して国事に尽くした。禁門の変後、主人であった藩家老益田右衛門介が自刃を命じ

     られたことに憤慨し河上範三らと謀り、山口に赴き志士を糾合し、慶応元年回天軍を組織した。しかし益田の家中は保守派

     に傾いており、河上と共に捕えられて自刃を命じられた。

大津唯雪 嘉永五年物頭役となり、翌六年江戸藩邸に在勤し大森警備、安政六年帰国して赤間関在勤、同三年総奉行手元役 長崎聞役

     同五年山口代官役、文久二年蔵元両人役を歴任し、翌二年山田亦助と上京して京都留守居役となった。同三年、八月十八日

     の政変後、都落ちする七卿を護衛して帰国。元治元年、恭順派に幽囚されるも慶応元年には赦にあい、翌二年には山代代官

     明治元年美禰代官となった。

大津光太郎 元治元年山口明倫館文学寮に入り、慶応元年には干城隊に加わり歩兵塾に入る。また小郡農兵半隊司令士、

      第四大隊半隊司令士となり、翌二年の第二次長州征伐時には芸州口へ出陣。三田尻表守衛、石州浜田守衛を経て帰陣し、

      山口兵学校に入って大村益次郎に従学した。

大見又太郎 文久三年八幡隊に入隊。元治元年禁門の変時に重傷を負って帰国。治癒した後、八幡隊隊長となる。慶応元年恭順派政府

      軍と美禰郡に戦い、翌二年の第二次長州征伐時には芸州口へ出陣、次いで豊前に転陣して戦功をあげた。

大村益次郎 天保十三年防府宮市の梅田幽斎に医学と蘭学を学び、翌年豊後の広瀬淡窓の門に入り、弘化三年には大阪の緒方洪庵に

      学び塾頭に進んだ。嘉永三年帰郷して四辻で医業を開いたが、同六年伊予宇和島藩に招かれて蘭学、兵学を教授した。

      安政三年江戸に赴いて鳩居堂を開塾、また幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌年講武所教授に任ぜられた。

      万延元年長州藩に抱えられ藩の蘭学に貢献。文久二年、西洋兵学教授となって山口普門寺塾で兵学を教えた。

      慶応元年軍務掛となった。翌二年の第二次長州征伐時、石州口の総参謀として連勝の後山口明倫館兵学寮に帰り兵学の

      教授に当った。明治元年討幕軍進発に藩主世子に従って出兵上京。太政官から軍防事務局判事加勢を命じられて軍制改革

      に尽力。親兵を編成し東北平定の為江戸へ進軍、江戸判事を兼任した。上野の彰義隊を討伐、奥羽、北越を平定して

      軍務官副知事となり、箱根鎮定後、永世禄一五〇〇石を賜った。維新後兵部大輔となる。

岡崎熊吉 藩校明倫館の金穀を掌する役人となり、文久三年下関攘夷戦に出陣して会計を担当した。元治元年上京して嵯峨天竜寺に

     籠り、遊撃隊本陣付として会計を勤めたが禁門の変時、烏丸通り中立売門から半町南の酒商店前で戦死。

岡崎高槌 振武隊に入り半隊司令となる。明治元年伏見で幕軍を破り、淀川堤で奮戦中負傷し死亡。

岡部富太郎 村塾生。文久二年江戸に行き藩世子に扈従して京に入り、ついで下関に帰って攘夷に尽した。元治元年大組隊を組織して

      副長参謀となり、また衝撃隊を編成。さらに勇力隊司令に選ばれ、慶応二年の第二次長州征伐時に芸州小瀬川口へ出陣

      した。明治元年、干城隊中隊司令として北越に出征して功をたてた。

岡村熊彦 文久三年八月十八日の政変時に京より帰国。ついで藩主訴冤の尽力し元治元年の禁門の変時、藩兵と共に帰国。明治元年、

     藩校明倫館教授となった。

岡本吉之進 元治元年の禁門の変後藩政を握った恭順派首領椋梨籐太に属し、小倉源五衛門、中川宇衛門らと共に新政権の政務座に

      列し、国事掛を務めた。しかし慶応元年革新派諸隊と戦って敗れ、萩野山獄に護送中自殺した。

岡本三右衛門 町人。代々綿商を営み、藩主の公武周旋に費用を弁じ同志の難渋を救い、藩主から扶持米二人口を賜り、帯刀を許され

       た。

岡本新太郎 領主村井亀之助の農兵として慶応二年の第二次長州征伐時に従軍し、伊予松山の幕兵と久賀村の国木台で戦い戦死。

奥平謙輔 文久三年選鋒隊として下関外船砲撃に参加。元治元年藩主世子に従って上京したが、禁門の変時途中帰国した。慶応二年

     干城隊に入り、翌三年隊引立掛として討幕軍に加わり、明治元年越後、会津に転戦した。維新後、萩野の乱を起こす。

小国融蔵 蝦夷地を遊歴後、嘉永四年に帰国。藩家老益田右衛門介に用いられて郷校育英館の学頭となり、安政元年には益田に従い

     相模を警備した。吉田松陰と親交が深く、互いに門下生を往来させた。文久二年益田に召喚され上京、国事を周旋した。

     翌三年八月十八日の政変により帰国、山口に開設した尚武場の場長となった。元治元年益田の上京に従って京都山崎に駐屯

     久坂玄瑞らと議し鷹司邸に藩主の冤訴を述べたが、禁門の変に敗れ帰国した。翌年、憂鬱病にかかり病死。

小倉源五衛門 初め藩主毛利敬親の小姓となり、のち目付役に転じ、さらに公儀人として江戸で勤務したが、一時国事に関して謹慎

       を受けて隠退した。元治元年の禁門の変後、椋梨籐太を首領とする恭順派が藩政を握った為再び出仕。吉田代官となり

       新藩庁の用談役を勤めたが、慶応元年、革新派諸隊との戦いに敗れ、捕えられ、護送中に自殺した。

小田村信之進 文久三年外艦砲撃に志願して兵列に加わり勇戦し、奇兵隊に入隊した。都落ちした七卿を三田尻で守衛し、その七卿の

       一人沢宣嘉を擁して河上弥一らと但馬に走り生野で義兵をあげた。しかしこと敗れ、同志と山口村妙見堂の麓で自殺

       した。

尾寺新之丞 村塾生。安政五年江戸に行き、翌六年、松陰の東送に奔走周旋し、その刑死後、飯田正伯、桂小五郎らの同志と遺骸を

      収めて埋葬した。その後幕府の海軍所に入って蒸気科を修行し、帰国して唐船方に勤めた。慶応年間には奇兵隊に

      加わって国事に奔走した。

小野述信 初め小学師匠として藩校明倫館に勤め、ついで萩江向の敬身堂で心学の講義をした。

小野虎之丞 元治元年藩主冤訴の為上京したが、禁門の変に敗れ帰国。第二次長州征伐時、主家である藩家老毛利出雲に属し、

      良城隊司令として安芸国佐伯郡大野村で奮戦し戦死。

小野正朝 安政二年、相州浦賀警衛の為実父に随行し、ついで隆安流砲術を修め、同五年には老中間部詮勝を除こうとして地雷火を

     製造し土蔵に入れられた。文久三年攘夷実行に海防御手当御用掛として下関へ出張、外艦へ砲撃し、また奇兵隊に参加して

     弾薬調製に当った。元治元年上洛の時大砲隊を編成して従軍、禁門の変が起こるや引返して小郡口を警衛した。

     慶応元年山口鴻城軍の砲隊長となり、翌二年、第二次長州征伐時に芸州口と豊前香春口へ出陣し、明治元年には整武隊

     大砲司令となった。

小幡高政 嘉永三年、非常手当表番頭、翌四年大組物頭弓頭役、安政三年手廻物頭砲頭役、同五年萩町奉行役、江戸留守居役等を勤め

     文久二年公武間周旋御内用掛として江戸、京都間を往復した。慶応元年三田尻頭人役、翌二年表番頭として北第五大隊

     総督用掛を勤め、第二次長州征伐時に芸州口へ出陣して凱旋した。



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